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01/10/2007

風雲千早城(900)

今日も農耕的に仕事をした。

・昨夜は、午前3時まで執筆。「オヅヌ」は11枚進む。鸕野皇女と山部赤人の出会い。史実では赤人は少し後の時代の人間なのだが、作品のテーマとの絡みで、早目に登場してもらった。ただ、史実の赤人は生没年不詳なので伝奇作家にはやりやすい。

・「雪之丞変化」をようやく通しで鑑賞した。噂にたがわぬ傑作。市川崑の演出、和田夏十の脚本もさりながら、やはり長谷川一夫の演技が素晴らしい。哀切をきわめた女形の目、殺意を湛えた復讐者の目、事件を愉しむ傍観者の目、それらの演じ分けの妙。一瞬、燃えて、次の瞬間平静を装う、それが観客に伝えられる演技、さすがである。妖美という雰囲気がどのようなものか、大変に勉強になった。
勉強になったといえば、言葉遣いも勉強になった。老獪な隠居旗本の言葉遣い、剣聖とたたえられる人間の言葉遣い、野望溢れる若侍の言葉遣い、おなじ侍でも全部違う。江戸っ子の女泥棒、大奥で将軍の寵を受ける旗本の娘、曖昧宿のゴウツク婆、芝居に興じる町娘、同じ女でもまったく言葉遣いが違う。町人でも、大商人・小商人・店主・番頭・芝居の座頭・座付きの若い衆・やくざ・泥棒・遊び人・雲助、これら全て、言葉遣いが全く違っている。そうだ。江戸時代においては身分によって言葉は、その使い方のみかボキャブラリーの根幹からして異なっていたのだ。ここ十何年かのうちに作られた時代劇は、どうも、このあたりを平均化しすぎているのではなかろうか。
そういえば、登場人物で、太っているのは老隠居と大商人の二人だけ、あとは見事にやせていて、米を求める貧民にいたっては、貧民としか呼びようのない姿格好をしていた。してみると暖衣飽食の現代にあって、リアルな(それでいてぶっ飛んだ)時代劇を求めることはムリなのかもしれない。

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