今日も農耕的に仕事をした。
●昨日は遅くまで執筆。その甲斐あって短編は77枚まで書き進めた。
●これから一日、仕事を続行しなければならない。
「さて、日記をどうしようかな」
と、頭をちょっと痛めたら、嬉しいことに竹岡さんから、C.A.スミスの傑作を寄稿していただいた。
今日は、そんな訳で、「千早城」お年玉バージョンとして、この作品を全編一挙にご紹介いたします。
●まずは竹岡さん、この作品について簡単に解説をお願いします。
「竹岡です。
以下にご紹介するのは、C.A.スミスの「歌う焔の都」(原題は"The City of the Singing Flame")です。
原文の長さは約1万6000語です。
「歌う焔の都」は、ワンダー=ストーリーズの1931年7月号に掲載され、続編の「歌う焔を超えて」(Beyond the Singing Flame)が同誌の1931年11月号に載りました。
現在では「歌う焔の都」と「歌う焔を超えて」を合わせて1本の短篇と見なすのが普通ですが、全部で七つの章から構成されている「歌う焔の都」の第4章以降は最初「歌う焔を超えて」として発表されたものです。
スミスの「歌う焔の都」と「彼方からのもの」(The Hunters from Beyond)そして「悪への帰依者」(The Devotee of Evil)はすべてフィリップ=ハステインという作家が語り手で、いわばハステイン三部作を構成しています。伝統的にクトゥルー神話大系の一部と見なされていますが、実のところクトゥルーとの接点はありません。
しかしランドルフ=カーターがラヴクラフトの分身であるように、ハステインはスミスの分身ともいうべき存在であり、そういう意味では注目に値します。我が国では「彼方からのもの」の大瀧啓裕訳があるだけなので、今回「歌う焔の都」を訳してみました。
御存じのようにスミスはラヴクラフトが称賛を惜しまなかった人物ですが、恵まれた環境で創作活動に打ち込んでいたわけではありませんでした。
SFマニアに作品をけなされ、嫌気がさして執筆を中断したこともあったそうです。
そういう現実にスミスはうんざりしていましたが、現実から逃避したところで幸福にはなれないということも一方では知っていました。
「歌う焔の都」の苦く悲しい結末には、逃避も妥協も拒んだスミスの美学と絶望が反映されているように思われます。スミスの最高傑作のひとつと考えます。
なお、この物語の重要な舞台となっているクレーター=リッジは実在の地名でして、スミスはそこで野営したこともあります。彼はクレーター=リッジの奇怪な風景に刺激されて「歌う焔の都」の執筆を思い立ったということです。
またハステインの住所であるカリフォルニア州オーバーンはスミス自身の住所でもありました。
絢爛たる幻想の中に現実が巧みに織り交ぜられた作品といえるでしょう。
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歌う焔の都
C.A.スミス
竹岡 啓 訳
緒言
2年近く前にジャイルズ=アンガースが失踪したとき、私たちは10年以上も友達であり、私は彼のことを誰よりも知っているという自信があった。それでも、その事件が不可解であるという点においては私も余人と大差がなかった。そして今日に至るまで、事件は謎のままである。
私も他の人たちと同じように、何もかも彼とエボンリーが仕組んだ壮大ないたずらなのだと考えてみたことがある──彼らは今もどこかで生きており、彼らが失踪したことで困惑しきっている世間を笑いものにしているのではないか。クレーター=リッジを訊ね、アンガースの手記で言及されていた二つの丸石を捜してみようと私が意を決するまで、失踪した二人の痕跡を誰も発見できず、それどころか彼らの噂すら寸毫たりとも聞いたことが
なかった。当時その出来事は奇妙きわまりなく苛立たしい謎であるように思えた。
幻想作家として令名を博したアンガースはシエラで夏を過ごしており、画家のフェリックス=エボンリーが訪ねてくるまでは一人きりだった。私はエボンリーには一度も会ったことがないが、彼は想像力豊かな絵を描くことで有名で、アンガースの小説の挿絵を手がけたことが何度もあった。
二人が長いこと姿を見せないので、近所でキャンプをしていた人たちが異変を感じ、何か手がかりはないかと小屋を捜索してみたところ、私宛の小包がテーブルの上に置いてあった。二人の失踪に関して各紙が憶測を書き立てているのを読んだ後で、やがて私は小包を受け取った。小包の中に入っていたのは、革で装丁した小さな手帳で、その見返しにアンガースはこう書いていた。
「親愛なるハステイン。よかったら、この手記をそのうち発表してくれ。この手記は僕の絶筆であり、もっとも荒唐無稽な小説だと思われることだろうね──君自身の作品だと思われない限りは。どちらでもかまわないよ。さようなら。
敬具 ジャイルズ=アンガース」
彼が予想した通りの反応が得られるだろうと思われたし、その話が真実なのか絵空事なのか自分でも確信が持てなかったので、私は彼の手記の発表を遅らせた。それが真実の物語であることを私はいまや自分自身の経験から確信するようになった。それが真実の物語であることを私はいまや自分自身の経験から断言できるようになった。そこで彼の手記を私個人の冒険談と合わせて、ようやく発表することにする。その出版に先駆けてアンガースが俗世に帰還したわけだが、彼と私の物語を一緒に発表することによって、単なる御伽噺以上のものなのだと受け取ってもらえるかもしれない。
それでも、自分の抱いた疑念を思い出すとき、私は訝しく思う……。だが、読者に判断していただくことにしよう。まずはジャイルズ=アンガースの手記だ。
1.彼方の次元
1937年7月31日──私には日記をつける習慣はついぞなかった──それというのも私の日常は波乱がなく、記録に値するようなことは滅多に起こらないからだ。だが今朝方の出来事はあまりにも奇異で、平々凡々たる法則や類例からひどくかけ離れたものだったので、自分の理解と能力の及ぶ限り書き留めておこうと思わずにはいられなかった。また、私の体験したことが繰り返し続いていくようであれば、記録を途切れさせないようにしよう。そうしておいたところで何ら害はないはずだ。この記録を読んだ人は誰一人として信じてはくれないだろうから……。
サミットの近くにある私の小屋から1マイル足らず北にクレーター=リッジがある。私はそこへ散歩に行ってきたところだ。周辺のありふれた風景とは顕著に性質が異なっているのだが、クレーター=リッジは私の大好きな場所のひとつだ。そこは並はずれて不毛で荒涼としている。ヒマワリや野生のフサスグリ、それと頑強でひどく歪んだ松や柔軟なアメリカカラマツが何本か生えている程度だ。
地質学者にいわせると、それは火山活動に由来するものではないということになるのだろう。だが、ごつごつした瘤のある石が露出していたり、巨大な石が山のように積み重なっていたりして、それらはすべて火山岩滓をまとっているようだった──少なくとも、私の科学的ならざる眼にはそう映った。それらは巨大な炉の鉱滓や廃物に見えた。有史以前の時代に吐き出され、冷えて固まって、途方もなく奇怪な形になったかのようだった。
その中に、原始時代の浅浮彫の破片を思わせる石があった。さもなければ、太古の小さな偶像か人形のようだった。他にも、失われた解読不可能な文字が刻まれているように見えるものがあった。意外なことに、長い乾燥した嶺の一端には小さな湖があった──ついぞ深さが測られたことのない湖だ。この地域は花崗岩の険しい岩山と、モミの木の生えた峡谷が延々と連なっているのだが、くだんの丘はその直中にあって奇妙な間奏をなすものだった。
風のない晴れた朝だった。私はしばしば立ち止まり、変化に富んだ雄大な景色が四方八方に広がっているのを眺めた──キャッスル=ピークの巨大な胸壁。ドナー=ピークの荒々しい塊を分かち、ツガの細道ができている。彼方にはネヴァダ山脈が青く輝き、足許には柳の柔らかな緑がある。隔絶した静寂の世界だった。聞こえてくるのは、フサスグリの茂みの中にいるセミのジイジイという乾いた鳴声だけだった。
私はしばらくジグザグに散策し、嶺に点在する石ころだらけの野原のひとつにやってくると、お土産として持ち帰れるくらい珍しい形をした石が見つからないかと地面を探しはじめた。前に来たときにいくつか見つけたことがあるのだ。突然、私は石ころの直中の空地に辿り着いた。そこには何も生えていなかった──人工的に作られた輪のように丸い場所だった。中央には二つの丸石があったが、奇妙にも形が似通っており、お互いの距離は5フィート離れていた。
私は立ち止まり、丸石を観察した。その材質は鈍い灰緑色の石だったが、近隣にあるいかなるものとも異なっているように思われた。二つの丸石は消失した円柱の台座で、計り知れないほどの歳月を経るうちに磨り減って基底部だけが残ったのではないかという奇々怪々な空想を私はたちどころに思いついた。確かに丸石の完璧な丸みと一様さは奇妙なものだったし、私は地質学をちょっぴり囓っていたにもかかわらず、その滑らかな石鹸質の材質は特定できなかった。
私の想像力は膨らみ、いささか過熱気味の空想に私は没頭しはじめた。だが、二つの丸石の間にある空間の中に私が一歩を踏み出したときに起きたことに比べれば、私のもっとも荒唐無稽な空想も日常茶飯事のうちだった。そのことを物語るのに全力を尽くすことにしよう。しかし、常識的な範囲の人間の体験を超えたところにある出来事や感覚を描写するのにふさわしい言葉は人間の言語には本来ないのだ。
一歩を踏み出そうとして段差を測り損ねたときほど狼狽させられることはない。それでは想像して御覧なさい、平らな開けた地面に向かって進み出ようとして足の下に何もないというのがどんなものか! 私は空虚な奈落の中へと落下していくかのようだった。同時に眼前の光景は細切れのイメージの渦となって消滅し、何も見えなくなってしまった。緊張感と極度の寒気があり、言い様もない吐き気と目眩が私を襲った。体の均衡が完全に失われているからに違いなかった。落下の速度か他の理由のせいで、まったく息をすることができなかった。
私の思考と感覚は混乱しきっていた。ほとんどいつも自分が下方よりはむしろ上方へ落下しているか、水平もしくは斜角の方向に滑っているかのように思われた。ついには自分が完全にでんぐり返った状態になってしまったという気がした。それから、私は固い地面に再び立っていた。墜落の衝撃や振動はまったく感じなかった。真っ暗だった視界は晴れてきたが、私はまだ目眩がしており、自分の見ているものを理解できるようになるには少し時間がかかった。
とうとう認識力を取り戻し、状況を把握しつつ周囲を見渡せるようになったときに私が経験した精神的な混乱は、前置きなしで異星の岸辺に放り出された人物のそれに等しいものだった。そういう状況下で間違いなく感じられるのと同じ喪失感と疎外感があった。同じように目まぐるしく圧倒的な困惑があった。私たちの人生に色彩や形態や定義を与えてくれ、さらには私たちの性格そのものを決定する馴染み深い環境の細部すべてから切り離されてしまったという怖ろしい感覚もあった。
私が立っているのは、クレーター=リッジとは似ても似つかぬ風景の直中だった。私の立っているところから、広々とした平野まで、長い緩やかな斜面が波打つように続いている。斜面は紫色の草に覆われており、モノリスのような大きさと形をした石が点在していた。平野には広々と波打っている草原と、未知の植物の丈高く荘厳な森があったが、その植物の主な色は赤紫と黄色だった。草原の突き当たりには金褐色の霧の壁があり、そこから先は見通せなかった。金褐色の霧の壁は徐々に薄れていきながら、太陽がないにもかかわらず琥珀色に光っている空に向かって尖塔の如く立ち上っていた。
この驚くべき風景の前方、2マイルか3マイルしか離れていないところに、ひとつの都市があった。その巨大な塔と赤い石造りの城壁は、未知の世界のアナク人が建てたかのようだった。張り出した壁が、巨大な尖塔が延々と連なって天高くそびえ、直線的な建造物の質実で荘重な列がどこまでも続いていた。その迫力たるや険しい岩山のように人を寄せ付けないものであり、見る者は圧倒されて打ちひしがれてしまうように思われた。
その都を眺めているうちに、当初の途方に暮れる喪失感と疎外感を私は忘れ去った。私が感じているのは畏怖の念であり、それに正真正銘の恐怖がいくらか混じっていた。そして同時に、曖昧ながらも心からの魅惑を私は感じていた。心を虜にするような魅力が不思議と放射されていたのだ。だが、しばらく見つめた後に、想像もできない自分の境遇の宇宙的な異様さと困惑が甦ってきた。私が感じたのは、狂おしく過酷なまでに奇怪なこの領域から逃げ出して自分自身の世界に戻りたいという闇雲な願いだけだった。私は自分の動揺を静めるために、現実に何が起きたのかを見定めようとした。
異次元の物語なら私はたくさん読んだことがあった──実際のところ、自分でもひとつかふたつ書いたことがあった。そして、人間の知覚では見ることも感じることもできない他の世界や物質界が私たちの宇宙と同じ宇宙に存在しているのかもしれないと考えてみたことも多々あった。もちろん、そのような次元に自分が陥ったことはたちどころに理解できた。疑いようもなく、ふたつの丸石の間に足を踏み入れたとき、空間にある一種の瑕疵または間隙に放り込まれ、その底でこの異世界に──まったく別種の宇宙に出現する羽目になったのだ。
ある意味では単純明快な話だったが、その原因や仕組みということになると、頭の痛くなるような謎でしかなかった。もっと心を落ち着けようと努めつつ、私は周囲の状況を丹念に観察した。この時になって私が感銘を受けたのは、前述したモノリス状の石の配列だった。その多くはきっちり等間隔に並んでおり、ふたつの平行な列をなしていた。石の列は丘の麓へと伸びており、紫色の草が繁茂して消し去った古代の道路の名残を示しているかのようだった。
坂の上にあるものを見てやろうと振り向くと、すぐ背後に二本の柱があった。クレーター=リッジにあった二つの奇妙な丸石とまったく同じ間隔で立っており、同じく石鹸質で灰緑色の石でできている。高さは9フィートほどで、てっぺんがぎざぎざに欠けているところを見ると、かつてはもっと高かったらしい。柱から程遠からぬところに、彼方の平原を
包んでいるのと同じ金褐色の霧が立ちこめており、そこで坂道は見えなくなっていた。だがモノリスはもはや見当たらず、二本の柱で道路は終わっているかのように見受けられた。
必然的に、この新次元にある石柱と私自身の世界の丸石の関係について私は推測しはじめた。外見の類似は単なる偶然であるはずがなかった。もしも私が石柱の間に足を踏み入れれば、私がこの世界にやってくることになった墜落が逆転して人間界に戻れるのだろうか? もしもそうであるならば、いかなる想像も及ばない異時空の存在が、二つの世界をつなぐ道の門として石柱と丸石を設置したのだろうか? 誰がどんな目的で道を用いていたのだろうか?
そういった問いによって開かれた推測の際限ない展望を思うと、頭がくらくらした。しかしながら私にとって最大の関心事は、どうやったらクレーター=リッジに戻れるかという問題だった。あらゆるものが奇々怪々であり、近くにある都市の怪物めいた城壁や、異様な光景の色彩や形態は人間の神経には耐えがたいものだった。こんな環境に長居しようものなら発狂してしまうだろうという気がした。それに留まっていたら、いかなる敵意ある力や生命体に遭遇するかもわからなかった。
坂道にも平野にも生物らしきものの動きは見当たらなかったが、大きな都市は生命体の存在を推定させる証拠となるものだった。私の書いた小説の主人公は完全に落ち着き払って五次元やアルゴルの世界を訪問するのを常としていたが、彼と違って私はおよそ冒険的な気分にはなれなかった。未知なるものを前にした人間の本能に従って、私も尻込みしたのだ。ぼんやりと見えている都市と、絢爛たる植物がそびえ立っている広大な平野をおずおずと一瞥すると、私は踵を返して石柱の間に足を踏み入れた。
見通しも利かず身の凍える深淵へとたちまち放り込まれたのは先程と同じだった。もみくちゃにされながら落ちていくのも、私がこの新しい次元に落下してきたときと同じだった。しまいに、自分が直立していることに私は気づいた。ひどく目眩がして震えが止まらなかったが、灰緑色の丸石の間に足を踏み入れる直前にいたのと同じ場所に戻ってこられたのだ。まるで地震でも起きているかのように私の周囲ではクレーター=リッジが揺れ動いており、私は平衡感覚を取り戻す前にしばし座り込まなければならなかった。
私は夢でも見ているかのような気分で小屋に戻った。信じがたい体験であり、現実のものとは思えなかった。今でもそうである。それでも、その体験は他の物事すべてに影を投げかけており、私の思考をことごとく染め上げ支配している。もしかすると、自分の体験を文章にすることによって多少はそれを払いのけられるかもしれない。これほどまでに心が乱れたのは生まれて初めてであり、私を取り巻く世界は、たいそう偶然にも私が垣間見た世界に劣らず有り得ない悪夢であるように思われる。
8月2日──ここ数日間でずいぶん考え事をしたのだが、考えれば考えるほど謎は深まるばかりだ。空間に間隙があり、それが空気もエーテル・光・物質も通さない完全な真空に違いないということを認めるとしても、どうしたら私がそこに落ち込むなどということが有り得るのだろうか? そして落ち込んだとして、どうやったら出てこられるのか──
それも私たちの世界と関係があるという保証が何等ない世界に?
だが、つまるところ理論上では一方の過程はもう一方の過程と同じくらい安易なものだったろう。主な難点は次のようなものだった。上方だろうと下方だろうと、あるいは後方だろうと前方だろうと、どうやったら真空中で動けるのか? それでアインシュタインの仮説はすっかり台なしになってしまうということになり、私は自分が真の解に近づいたとい
う気がしなかった。
しかも、あれが本当に起きたことだと確信するためだけでもいいから戻りたいという誘惑と私は戦っている。だが結局のところ、なぜ私は戻ってはいけないのだろうか? いかなる人間も未だかつて与えられたことがないようなものを私は偶然にも受け取ることができたのだし、私が見ることになるであろう驚異や、学ぶことになるであろう秘密は想像も及ばぬものだ。かかる事情のもとでは、私の神経質な恐怖は許しがたいほど子供じみたものである……。
2.巨人の都
8月3日──今朝、拳銃で武装した上で引き返してみた。どういうわけか、そんなことをしても違いがあるとは思えなかったが、丸石の間にある空間の真ん真ん中に踏み込むのはやめておいた。明らかにこの結果として、私の効果は前回よりも長く激しいものとなり、もっぱら螺旋を描きながらの宙返りの連続で成り立っているように思われた。続いて起こった目眩から回復するのには数分を要したが、我に返ったとき私は紫色の草むらに横たわっていた。
私は今度は勇気をふるって坂道を下り、黄色と紫の奇怪な植物の中になるべく身を潜めるようにしながら、ぼんやりと見えている都市の方へそろそろと進んでいった。何もかも静まり返っていた。異様な木々を揺らす風は全くなかった。木々の高々と直立した幹と水平な群葉は、巨大都市の建造物の質実な輪郭線を模倣しているかのようだった。
程なくして私は森の中の道に行き着いた──少なくとも20フィート四方はある巨大な石畳で舗装された道だった。その道は都市へと続いていた。道は完全に無人で、もはや使われていないのかもしれないと私はしばし考え、そこを歩いてみることさえしたが、それも背後から物音がする前のことだった。振り向くと、数体の奇怪な生命体が近づいてくるのが見えた。恐れおののいた私は茂みに飛びこんで身を隠し、その生物が通りすぎていくのをそこから見守りながら、彼らに見られてしまったのだろうかと懸念した。どうやら私の懸念は杞憂だったらしい。私の隠れている場所を彼らは一瞥だにしなかった。
その生物を描写することはおろか、いま思い浮かべてみることすら私には困難である。人間もしくは動物と見なすのに私たちが慣れ親しんでいるいかなる存在にも彼らはおよそ似ていなかったからだ。背丈は10フィートもあり、たいそう大股で歩いていたので、たちまち姿が道の曲がり角の向こうに消えて見えなくなってしまった。彼らの体は光り輝いており、ある種の鎧を装着しているかのようだった。丈の高い湾曲した付属器官が頭部には備わっていた。その器官は乳白光を発しており、風変わりな羽根飾りのように頭上で揺らいでいたが、特殊な触角か感覚器だったのかもしれない。興奮と驚異の念に震えながら、私は極彩色の茂みの中を進み続けた。前進していくうちに、どこにも影が見当たらないことに初めて気がついた。太陽のない琥珀色の天空の至る所から光が発せられており、柔らかい均一な光で一切を満たしていた。すべてが以前と同じように動かず、静かだった。この不可思議な光景のどこかに鳥か昆虫か獣がいるという証拠は皆無だった。
だが都市から1マイルのところまで近づいたとき──物体の大きさが常識に外れている領域でもその距離は測れたのだ──あるものの存在に私は気づいた。最初それは音というより振動として認識された。私の神経は妙にぞくぞくした。未知の力または放射が私の体を流れるのが感じられて心が騒いだ。その音楽が聞こえる前から振動が感じられたのだが、音楽を聞きつけた私の聴覚神経はたちどころにそれを振動と同一のものと判断した。
それは彼方から聞こえてくる微かな音楽で、巨大な都市の中心部から放射されているように思われた。旋律は身にしみるように甘美で、官能的な女性の歌声に似ているときもあった。だが、その音程はこの世のものとも思われず、甲高い不断の音色は、遙かな世界や星辰の光を音に変換したものだという感じがした。人間の声で出せる音ではなかった。
私は普段あまり音楽に敏感な方ではない。音楽に対する感受性が乏しいと非難されたことさえある。だが、遙か彼方から聞こえてくる音が私に及ぼしはじめている奇妙な精神的・情動的呪縛に気づいたときも、大して向上していたわけではなかった。セイレーンの歌声のように私を引き寄せる魅惑があり、自分の置かれている状況の異様さや危険の可能性を忘れそうになった。麻薬を投与されたかのように自分の脳髄と五感がゆっくりと酩酊していくのを私は感じた。
私には理由も方法もわからなかったが、その音楽は何らかの狡猾な流儀で、広大ながらも到達可能な空間と高度の、超人的な自由と歓喜の想念を伝えてきていた。そして、私の空想が漠然と夢見ていた有り得ざる光輝すべてを約束してくれているように思われた……。
森はほとんど都市の壁まで続いていた。森の外れから様子を窺っていると、圧倒的なまでの城壁が頭上高く空にそびえているのが見え、巨大なブロックの完璧な継ぎ目に気づいた。私は大きな道のそばにいた。道は開いた門へと続いており、その門はベヘモスですら通り抜けられそうなほど大きかった。守衛は見当たらなかった。そして背の高い輝く生命体が何体か大股に歩いており、私の見ている前で都市へと入っていった。
私の立っているところからは門の内側は見えなかった。壁がひどく分厚かったのだ。いや増す一方の洪水となった音楽が神秘的な出入口から溢れ出てきて、その怪異な魅力で私を引き寄せようとし、想像もつかぬ事柄を熱望していた。抗うのは困難だった。意志の力を奮い起こして背を向けるのは難しかった。危険だという考えに私は意識を集中させようとしたが──その考えは弱々しく非現実的なものだった。
とうとう私は無理やり離れ、後ろ髪を引かれる思いで大層のろのろと道を戻っていった。
音楽が聞こえなくなるまで、それが続いた。聞こえなくなった後でも、麻薬の効果のように呪縛が残存していた。我が家へ帰る間中ずっと私は引き返し、あの光り輝く巨人たちの後を追って都市に立ち入りたい気分だった。
8月5日──私は再び例の新次元を訪れた。自分はあの招き寄せる音楽に抵抗できると思ったし、音楽の影響が強すぎたとき耳に詰める綿栓も持っていった。前と同じ距離で超自然的な旋律が聞こえてきて、私は同じように引き寄せられた。だが今回は、私は開いた門をくぐったのだ!
あの都市を私に描写できるだろうか? 都市の建物や街路そしてアーケードという測りがたいバベルの直中にあって、自分が巨大な敷石の上を這う蟻のようなものに感じられた。至る所に柱があり、オベリスクがあり、神殿らしき建物の切り立った塔門があったが、それに比べればテーベやヘリオポリスの塔門も霞んで見えた。そして都市の住人たち! いかにしたら彼らを描写できるか、彼らに名前を付けられるか!
私が最初に見かけた光り輝く生命体は都市の真の住人ではなく、来訪者に過ぎなかったのだと思う。たぶん、私と同じように他の世界か次元からやってきたのだろう。真の住人たちも巨人だったが、彼らは厳粛な聖職者らしい歩調でゆっくりと歩いていた。彼らは裸形で体が浅黒く、その肢は女人像柱のそれだった──彼ら自身の建造物の屋根や横木を持ち上げられるほど逞しいように思われた。彼らの姿を詳細に描写することはためらわれる。人間の言葉で説明しようものなら、怪物めいた無様な代物を想起させることになってしまうだろうからだ。だが彼らは怪物じみているわけではない。私たちとは別の進化の法則、異なった世界の環境の力や条件に従って発達しただけなのだ。
どういうわけか、彼らの姿を目の当たりにしたときも怖くはなかった──もしかすると、あまりにも音楽に引き寄せられていたので恐怖を感じなかったのかもしれない。門のすぐ内側に彼らが群がっていたが、私がそばを通り過ぎても注意をまったく払わなかった。彼らの目は黒玉に似た不透明な球体で、スフィンクスの落ちくぼんだ眼のように表情がなかった。分厚くまっすぐで表情のない彼らの唇からは何の音も発されなかった。ことによると彼らには聴覚がないのかもしれなかった。長方形に近い奇妙な頭部には耳らしきものがまったく見当たらなかったのだ。
私は音楽の源を辿っていった。音楽の源はまだ彼方にあり、音量はほとんど増していないようだった。城壁の外の道で先ほど見かけた生命体がすぐさま私に追いついた。彼らは私を足早に追い抜き、迷宮の如く入り組んだ建物の中へと姿を消していった。彼らの後から他の生命体がやってきたが、あれほど大きくはなく、光り輝く鎧も装着していなかった。
それから頭上に二体の生命体が現れた。血のように赤く透明な長い翼を備えている。その翼には複雑な翅脈とうねがあった。彼らは他のものたちを尻目に並んで飛んでいった。彼らの顔は動物のものではなく、備わっている器官はどう使うのか見当もつかなかった。彼らが高度に進化した生命体であることを私は確信した。
厳粛にゆっくりと歩む生命体を私は何百体も見かけた。都市の真の住人であると私が判断した連中だが、彼らは誰も私に気づいていないらしかった。人類よりも奇怪で特殊な種族を彼らが見慣れていることは疑問の余地がなかった。前進していくうちに、有り得ざる外見をした生命体が何十体も私に追いついたが、いずれも私と同じ方向を目指しており、セイレーンの歌声の如き旋律にこぞって引き寄せられているかのようだった。
彼方から聞こえてくる、阿片の如き霊妙な音楽に導かれて、錯綜した巨大な建造物の奥深くへと私は突き進んでいった。10分かそこらの間隔で音楽が漸進的に強まったり弱まったりしていることに私はすぐ気づいた。だが、ごくわずかずつ音楽は甘美さと近さを増していった。何重にも入り組んだ石造の迷宮を通して壁の外側まで音楽が聞こえるのはどうしてだろうかと私は訝った……。
私の頭上には長方形の建物が何層にも積み重なり、恐るべき高さで琥珀色の天空にそびえている。その建物の絶え間ない薄暗がりの中で私は何マイルも歩いていたに違いない。そして、すべての中核にして秘密であるところへと私はとうとう辿り着いた。無数の怪物的な生命体に混じって、私は大きな広場へと出て行った。広場の中央には神殿らしき建物があり、他を圧する大きさを誇っていた。堂々として甲高く大音量の音楽が、柱がたくさん立っている建物の入り口から溢れ出てきていた。
その建物の広間に足を踏み入れたとき、私はぞくぞくした。神聖にして神秘なる場所に近づいているのだ。多くの異世界や異次元からやってきたに違いない人々が私と共に、そして私に先立って巨大な柱廊を進んでいた。その柱には判読不可能な記号や謎めいた浅浮彫が刻み込まれていた。浅黒く巨大な都市の住人たちが佇んだり歩き回ったりしていたが、他のものたちと同様に自分自身の用事に没頭していた。誰も私には話しかけなかったし、自分たち同士で会話することもなかった。私の方を何気なく見やる者もいたが、私がその場にいるのが当然のことと見なされているのは明らかだった。
その不可解なる驚異を伝えられる言葉などありはしない。そして音楽は? 音楽もまた私にはおよそ描写しがたいものだった。さながら不可思議な霊薬が音波に変じたかのようだった──超人的な生命という贈物を与えてくれ、神々の見る崇高で壮麗な夢を見させてくれる霊薬だ。秘められし源に近づいていくについて私の頭の中で音楽が高鳴り、まるで天上の美酒に酔いしれているかのようだった。どうして自分が漠然と警戒心を抱き、さらに接近する前に綿で耳栓をしたのかわからない。まだ音楽は聞こえたし、その奇異にして身にしみる振動も感じられたが、耳栓をしたことで音は押し殺されたものとなり、音楽の影響はそれまでほど強力なものではなくなった。この単純で素朴な警戒心のおかげで私の命が助かったことは疑いようがない。
果てしなく続く柱の列は、玄武岩の長い洞窟の内側のようにしばし薄暗くなった。それから、前方の少し離れたところで床と柱が柔らかく照らし出されているのが見えた。その照明はすぐに溢れかえる光輝となり、神殿の中心で巨大なランプが灯されているかのようだった。そして秘められし音楽の振動に、私の神経はより強く脈打った。
広間の突き当たりにあったのは、巨大で広さの定かならざる房室だった。その壁と天井には影がつきまとっており、はっきりとは見えなかった。中央は巨大なブロックで舗装されており、その直中に円形の穴があった。穴からは炎が絶え間なく噴き出し、ゆっくりと伸びていた。その炎は唯一の照明であり、この世のものならぬ荒々しい音楽の源でもあった。慎重に耳栓をしていたにもかかわらず、その甲高く宇宙的に甘美な歌声に私は負けそうだった。官能的な誘惑と、崇高にして目眩く高揚が感じられた。
その場所が神殿であり、私と共にいる異次元の生命体が巡礼であることが即座にわかった。彼らは何十人もいた──もしかすると何百人もいたかもしれない。だが、その部屋の宇宙的な巨大さに比べれば、彼らはすべて小さく見えた。彼らは炎の前に集い、様々な流儀で崇敬の念を表した。異様な頭を垂れたり、人外の手や器官で拝んだりした。太鼓が鳴るように太く低かったり、巨大な昆虫が鳴くように鋭かったりする声が、炎の泉の歌声に混じって聞こえた。
魅せられて私は前に進み、彼らに加わった。立ち上る炎の眺めと歌声の虜となって私は奇異なる道連れにはほとんど注意を払わなかったが、それは彼らの方でも同様だった。炎の泉はひたすら立ち上り、その後ろに座している巨像の肢や顔が照らし出された──異界における古代の英雄や神々や魔神たちが石像となり、無限なる神秘の薄明から見つめているのだった。
火は緑色でまばゆく、恒星の中心で燃えさかっている炎のように純粋だった。私は目がくらんだ。私が眼を背けたとき、空中は複雑な色彩の網で満たされていた。それは急速に変化するアラベスクであり、その無数にして尋常ならざる色合いと模様はいかなる世人も未だかつて見たことがないようだものだった。より強烈な命で自分を骨の髄まで満たしてくれる刺激的な暖かさを私は感じた……。
3.焔の誘惑
音楽は炎につれて高まった。そして炎が周期的に強まったり弱まったりしていることが今や理解できた。眼を凝らしながら耳を傾けていると、狂おしい考えが心の中に生じた──前に走り出て、歌う炎の中に頭から飛びこんでいったらどんなにすばらしいだろうという考えだ。彼方から炎が約束してくれていた歓喜と勝利すべてが、光輝と高揚すべてが、身を焼き尽くされる瞬間に見出せるだろうということを音楽は私に告げているように思われた。音楽は私に懇願していた。その崇高な旋律の音色で嘆願していた。耳栓をしているにもかかわらず、その誘惑は抗いがたいほどだった。
しかしながら、音楽を聴いていても私は正気をすっかり失ってしまいはしなかった。高い崖から飛び降りようとしていた人のように、私はやにわに恐怖を覚えて後ずさりした。そのとき、同じ怖ろしい衝動を覚えたものが私の道連れの中にもいることがわかった。深紅の翼を備えた生命体のことを前に話したが、私たちから少し離れたところに彼らが二人立っていた。今や、大きく羽ばたいて彼らは上昇し、蝋燭の火に向かう蛾のように前へ飛んでいった。束の間、彼らの半透明の翼を通して光が赤く輝いたが、それも彼らが業火の中に飛びこんでいくまでのことだった。一瞬だけ火勢が強まり、それからまた元に戻った。
きわめて多種多様な生物学的傾向を示している無数の他の生命体が矢継早に飛び出していき、火中に身を投じた。体が透明な生物がおり、オパールのような色で全身が輝いているものもいた。翼の生えた巨人もいれば、七里靴を履いているかの如き歩幅で歩むものもいた。翼が退化して使えなくなったものがおり、走るというよりは這いずりながら、同じ栄えある破滅を憩いとして求めていた。だが、彼らの中に都市の住人は誰一人として混じっていなかった。彼らはただ佇んで見守り続けるだけであり、相変わらず無表情で彫像のようだった。
炎の泉はこの上なく高まり、そして衰えはじめたということがわかった。炎は着実ながら緩やかに半分の高さまで落ちていった。この間、自己犠牲の挙に出るものはもうおらず、私の傍らにいた数名のものが出し抜けに身を翻して立ち去った。あたかも死の呪縛に打ち勝ったかのようだった。
背が高く甲冑をまとった生命体の一体が去りしなに私に言葉をかけた。その声はクラリオンの音色のようだったが、紛れもなく警告の響きを帯びていた。相反する感情に動揺しつつも私は意志の力を振り絞り、彼の後に続いた。一歩ごとに音楽の狂気と幻惑が私の自己保存の本能と戦っていた。引き返そうという衝動に私は一度ならず襲われた。阿片を飲んで酩酊した人間がさまよっていたかのように、私の家までの旅路は漠としたものだった。そして私の背後では音楽が歌っていた。私が手に入れ損ねた歓喜のことを語り、炎に身を焼き尽くされる一瞬は永遠の生命よりもよいものであると告げていた……。
8月9日──新しい物語の続きを書こうとしているのだが、一向に進まない。心に思い浮かべたり、言葉の形をとらせたりするものは、私が立ち入ることを許された不可思議なる神秘の世界に比べたら、すべて平板で稚拙に思われる。引き返したいという誘惑がかつてなく強まっている。記憶に残っている音楽の呼び声は、愛する女性の声よりも甘美なものだ。その難題に私はいつも悩まされている。私に理解できたことはわずかしかないのだが、そのわずかなことが私を苦しめているのだ。
私がかろうじて認識した存在や作用はいかなる力なのだろうか? あの都市に住んでいるのは何者なのだろうか? 祀られている炎を訪れるのは誰だ? 曰く言い難い危険と破滅が待ち受けているあの場所に彼らが外世界や彼方の惑星からやってくるのは、いかなる噂や伝説を聞きつけたからなのか? そして、あの炎の泉は何なのか。あの誘惑には、あの死をもたらす歌にはいかなる秘密があるのか? これらの問題からは際限なく憶測が生じたが、解答は想像するべくもなかった。
もう一度戻ってみようと考えている……だが独りで戻るのではない。今度は誰かが私に同行し、あの驚異と危険の証人になってくれなければならない。あまりにも奇怪すぎて信用してもらえない話だ。私が目撃し、感じ取り、憶測したことを裏付けてくれる人間が必要なのだ。それに、私には憶測しかできなかったことでも、他の人なら理解してくれるかもしれない。
誰を連れて行くことにしようか? 外の世界からここに誰かを招くことが必要だ──知的にも美的にも高度な能力を備えた人間を。小説家仲間のフィリップ=ハステインに声をかけてみようか? 残念ながら彼は多忙すぎるだろう。だがカリフォルニア人の画家フェリックス=エボンリーがいる。私の幻想小説に挿絵を描いてくれたことのあるだ……。
もしもエボンリーが来てくれれば、あの新次元を見て気に入ってくれることだろう。この世のものならぬ奇怪なものを愛好する彼のことだから、あの平原や都市の壮観や、バベルの塔の如き建物や拱廊や、炎の神殿に魅せられて虜になるだろう。さっそくサンフランシスコの彼の住所に宛てて手紙を書くことにしよう。
8月12日──エボンリーがここにいる。彼の画題に打ってつけのものがあると手紙でほのめかしてみたところ、刺激が強すぎて抗しきれなかったのだ。いま彼に事の次第を詳しく説明したところだ。彼は半信半疑なようだが、だからといって彼を非難しようとは思わない。だが彼が疑念を抱き続けるのも長いことではないだろう。なぜなら明日、歌う焔の都を私たちは一緒に訪れるのだから。
8月13日──心が千々に乱れて何も手に着かないが、集中しなければならない。言葉を選び、念には念を入れて書かなければならない。私が日記をつけるのもこれが最後だろうし、文章を書くのも最後だろう。書き終えたら日記を包装し、フィリップ=ハステイン宛にしておく。彼なら、適切だと思うやり方で日記を処分してくれるだろう。
今日、私はエボンリーを異次元に連れて行った。彼も私と同様、クレーター=リッジに二つぽつんとおいてある丸石に感銘を受けていた。
「人類以前の神々が立てた柱の成れの果てみたいだな」と彼は指摘した。「君のいうことが信じられそうだ」
私は彼を先に行かせ、足を踏み入れるべき場所を示した。彼は躊躇することなく従い、一人の男が一瞬で完全に消失するのを私は目撃することになった。つい先程まで彼はそこにいた──次の瞬間、そこには剥き出しの地面があるばかりで、彼の体に遮られて見えなかったアメリカカラマツの森が彼方に見えた。私は後に続き、畏敬の念に打たれて言葉を失った彼が紫色の草むらに立っているのを発見した。
「こんなことが」とうとう彼はいった。「存在するなんて今までは薄々感づいていただけだったし、想像力をもっとも発揮して絵を描いたときだって暗示できなかった」
平原に向かって続くモノリス状の丸石を辿っていく間、私たちはほとんど口をきかなかった。遙か彼方、丈が高く堂々とした木々が壮麗に葉を茂らせている向こうで金褐色の霞に裂け目が生じ、果てしない地平線が覗いていた。そして地平線の向こうでは、琥珀色の天空の奥まったところに、かすかに輝く球体と、ぎらぎら光りながら飛んでいく微片が延々と連なっていた。あたかも、私たちの宇宙とは違う宇宙の帳が引き払われたかのようだった。
私たちは平原を横切り、セイレーンの歌声の如き音楽が聞こえるところまでついにやってきた。綿で耳栓をするよう私はエボンリーに警告したが、彼は従わなかった。
「新しく体験できるかもしれない感覚は何であれ、弱めたくないんだ」と彼はいった。
私たちは都市に足を踏み入れた。巨大な建物や人々を目撃すると、私の連れは有頂天になった。音楽が彼の心を捉えていることもわかった。すぐに彼は視線がじっと動かなくなり、阿片を飲んだ人の如く夢見る目つきとなった。
私たちを追い抜いていく様々な生命体や建造物について彼は最初しきりに意見を述べ、それまで気づかなかった細部に私の注意を引きつけてくれた。だが炎の寺院に近づくにつれて彼は周囲を観察しなくなり、恍惚とした内省に耽るようになった。彼は口数が少なくなり、喋ることがあっても発言は短いものだった。そして私の質問に耳を傾けてすらいないようだった。あの音色が彼を魅了し、その心をすっかり捉えてしまったことは明らかだった。
私が前に訪れたときと同じように、多くの巡礼者が神殿に向かっていた──そして神殿から遠ざかっていく者は滅多にいなかった。私が前に見たことのある進化の型に属しているものがほとんどだった。初めて眼にする連中の中に、巨大な蝶の羽のような金色と濃青色の翼を備えた壮麗な生命体がいたことを覚えている。その生命体には宝石のような煌めく眼があった。楽園の如き世界の栄光を反映するべく創られたものに違いなかった。
意地の悪い束縛と魅力を私も感じた。知らないうちに少しずつ思考と本能が冒されていった。まるで、曰くいいがたいアルカロイドの如く音楽が私の脳髄に作用したかのようだった。いつものように用心していたので、私は音楽の影響に対してエボンリーほど完全に屈服してはいなかった。にもかかわらず、私が多くの事柄を忘れ去るには充分だった──私のように耳栓で防御することをエボンリーが拒んだときに初め感じた懸念も忘れてしまっていた。彼がさらされている危険のことを私はもう考えず、自分自身の危険をも顧みなかった。考えることがあっても、ごく微かで取るに足らないことに思えた。
街は延々と続いて目が回る悪夢の迷宮のようだった。だが音楽が私たちをまっすぐ導いていったし、常に他の巡礼者がいた。強い潮流に巻き込まれた人間のように、私たちは目的地へと引き寄せられていった。巨大な柱が立ち並ぶ広場を通り抜け、炎の泉がある場所へと近づいていくと、私の頭の中で危機感が一瞬だけ強まり、私はもう一度エボンリーに警告しようとした。だが私の抗議や諫言はすべて無駄だった。彼は機会のように耳を貸さず、死をもたらす音楽以外のものには無頓着だった。彼の表情や動作は夢遊病者のそれだった。彼の体をつかみ、できる限りの強さで揺さぶったときも、彼は私の存在に気づいていなかった。
崇拝者の列は初回の訪問時よりも大きかった。私たちが立ち入ったとき、純粋な光り輝く炎は着実に勢いを強めており、その歌声の純然たる熱情と法悦は虚空に独り浮かぶ星のものだった。立ち上っている炎の中へ蛾の如く飛び込んでいって死ぬという狂喜のことを、炎の精髄との束の間の合一という歓喜と勝利のことを、言語に絶する響きで炎は再び私に告げていた。
火勢は最高潮に達していた。私にとっても、催眠術めいた魅力はほとんど抗いがたいものだった。私たちの道連れの多くが屈服し、最初に犠牲となったのはあの蝶のような生命体だった。様々な進化の型に属する4体の他の生命体が、驚くほどの素早さで後に続いた。
私自身も部分的ながら音楽に屈していた。致命的な束縛に抗おうと懸命になって、ほとんどエボンリーの存在を忘れ果てていた。彼を制止することを考えるのですら遅すぎた。彼は前に飛び出していったのだ。その跳躍は厳粛であると同時に狂乱したものであり、何らかの宗教的な舞踊が始まったかのようだった。そして彼は頭から炎の中へ飛び込んでいった。火が彼を包んだ。火は一瞬だけ燃え上がり、その緑色はさらに眩いものとなったが、それだけだった。
麻痺していた脳髄の中心から這い出してくるかのように、恐怖がゆっくりと私の意識に忍び寄ってきて、破滅的な催眠効果が打ち消された。大勢のものがエボンリーの例に倣ったが、私はきびすを返して神殿と都市から一目散に逃げ出した。だが私が歩を進めるにつれて、どういうわけか恐怖が消え去っていった。ますます私は連れの運命を羨むようになり、炎に焼き尽くされる瞬間に彼が覚えた感覚について思いをめぐらせるようになった……。
今これを書きながら、どうして自分は人間界に舞い戻ってきたのだろうかと私は訝っている。言葉を費やしたところで、私が目撃し体験したことは言い表せない。そして、余人が知りもしない世界の計りがたい力に翻弄された私に生じた変化のことも。文学など影の如きものに過ぎなくなった。私が得られたかもしれない壮麗な死──今なお待ち受けている栄光の運命に比べれば、単調な日々の反復が延々と続くだけの人生など非現実的で無意味なものだ。
音楽は記憶の中でしつこく聞こえ続けているが、私にはもう闘う気力がない。それに、闘う理由があるとも思えないのだ……明日、あの都市に戻ることにしよう。
(この続きは「千早城第370回です)
●「369回」→「370回」→「371回」と読んでいってください。
なにしろ巨編なもので、重くて開けないのです。
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