2006/07/25

風雲千早城(785)

今日も農耕的に仕事をした。

・室町時代についてのメモ。①「悪銭身につかず」→私鋳によって造られた貨幣(贋金)のことを悪銭という。よって贋金はさっさと悪銭屋に売ってしまうのが賢い庶民の知恵だったのである。②「寄らば大樹の陰」→三代将軍・足利義満は絶大な富と権力を有し、自ら日本国王を名乗り、朝廷さえも意のままに動かそうとしたところから「大樹」と呼ばれた。さらに最愛の子・義嗣を皇位につけようと陰謀を巡らせたのである。権力者には一時的に天の運行さえも意のままになるかと思われる時期がある。義満しかり、六代・義教しかり、後の信長しかり、秀吉しかり、家康しかり、小泉純一郎しかり、である。こうした時には如何なる英雄豪傑といえども抗するすべはない。かくのごとき状況のときには天の機・地の理を読んで、大樹の傾くのを待つのが一番である。反権力者は権力者に最も近いところに位置している。次期総理になるのが誰かは知らないが、自分の首を狙ってる者が誰か知りたければ、周囲の人間を見回すべきであろう。

・包丁とは元来、料理人をあらわす言葉であったが、彼等の使用した包丁刀がのちに略されて包丁となり、逆に料理人のことを包丁人というようになった。室町時代にはすでに包丁人(包丁師)を家業とする者が現われ、流儀を競うようになっていた。朝廷御用は四条家、将軍家御用は大草家といった。この四条家の「四条流包丁書」によれば、「上は海物、中は河物、下は山の物」とある。山海の珍味というが、「海の珍味」のほうが「山の珍味」よりも高級だったのである。河の物では鯉が最上、山の物では雉がお定まり、海の物では鯨がことのほか好まれた食品だった。鯨食は中世より連綿と続き、日本民族が世界に誇る食文化である。ランプの油欲しさに18世紀以降、鯨たちの膏血を絞り、虐殺し続けた米帝とはその源からして異なるのである。

・刀は室町時代、日本の重要な輸出品目であった。明国ではこれを倭刀と呼び戦に重用した。当時、刀は、数打(かずうち)・束刀(たばかたな)と呼ばれて、粗製の物が大量に生産された。当時の日本人は、上は帝から、下は下人(百姓の奴隷)まで悉く武装していた。当時、雑兵が用いた消耗刀を打刀(うちがたな)という。抜き打ちという言葉は打刀を素早く抜いて使用するところから生まれた。打刀はもっぱら鍔をつけていたので、鍔刀とも呼ばれるようになった。鍔の生産は本来、甲冑師の余業であり、鎧の小札(こざね)の高度な鍛錬技術を転用したものである。

・戦争における鉄砲の使用を、誰よりも先んじて着目したのは、十二代将軍・義晴(1511~50)であった。彼は諸大名に先んじて、近衛家を介して種子島氏と連絡を取り、鉄砲を入手しようと画策した。さすがは剣豪将軍・義輝の父である。一方、管領・細川晴元も、種子島に教線を拡大していた日蓮宗本能寺派を通じて、鉄砲を求めた。さらに晴元は近江国友村の刀工に鉄砲製作を命じた。これが、国友鉄砲鍛冶の起源である。

・納豆、蒲鉾、素麺、豆腐、味噌、醤油、いずれも室町中期~末期に誕生した日本固有の食文化である。まず茶を一服飲んで落ち着くのも、室町中期には庶民の慣習となっていた。応永三十年頃(1423年頃)の『酒屋名簿』によれば、当時、すでに京都には三百四十七軒もの造り酒屋が存在していた。酒はもっぱら冷でたしなみ、モロミ酒からスミ酒まで色々とあったが、今日のごとき透明な清酒は江戸中期までみられなかった。

・畳、盆踊り、釜、床の間、表具、活け花、茶の湯、これら国風文化のすべて、室町時代に創造された。和紙や筆が国産されるようになったのも室町時代である。

・北は蝦夷から南は台湾、琉球、さらに明国、朝鮮とも交易が頻繁に行なわれ、若狭小浜の市にはアイヌの売る昆布や鮭が、琉球の珊瑚と共に商われていたと記録される。

・考えてもみたまえ。信長の上洛(永禄十一年)は、銀閣寺を築いた足利義政の死(延徳二年)から、たった78年後の出来事なのである!   つまり安土桃山時代と室町時代の距離など、イスラエルのレバノン攻撃の現代2006年と、張作霖の爆殺事件のあった1928年との距離にすぎないのだ。

・しかるに、何ゆえに、こんにち室町時代は単なる「プレ戦国時代・ポスト鎌倉時代」といった、あってもなくてもいいような一時代と軽んぜられているのだろうか。室町主義者としてはもっと多くの人々に、この時代に親しんでもらいたく思うのである。(この話題、いつかに続く)

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